昭和五十七年一月十七日 朝の御理解
x御理解第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりでない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
お道の信心は御礼と御詫びと願いと言われております。どういう時に御礼の実感、御詫びの実感、ね。切実なるところの願い、というものが出来るのか、と。私は今日の、まあ御理解から頂くと、ね。鏡を立ててみる度毎に御礼であり、御詫びであり、願いでなからないと実感の共なった御礼、御詫び、願いにならないと思うんです。御礼ばっかり申しております。御詫びっばかりしております、というようにまあ言いますけれども、どこをどう詫びておるのか、どこをどう御礼申し上げておるのか。
成程、今日こうしてある。という事がおかげだから、ま、今日もおかげ頂いて。と、こう御礼。だからそういう意味での御礼ではなくて、まあ本当に神様に聞こえる御礼。いわゆる神様に届く御礼、または御詫び、願いでなからなければ、ただ金光様の信心は御礼と御詫びと願いだから、その御礼やら御詫びやら御願いやらしてさえいきよればよい、というのではいけない。やはり鏡を立てるたんびんに、でなからなければいけない、ね。
だから、鏡に映るところの姿というものが詫びねばならない、ね。歪んでおれば、真直ぐに改めていかなければならない。汚れておればそれをきれいにしていかなければならない、ね。どう見ても本当に御礼を申し上げる事ばかり、というように映ればいわゆる心から真心から御礼が言えれる。問題は神様に通わなければ、通じなければ、と言うわけであります。ですからね、漠然とではなくても鏡を立てて眺めるとき、その御礼やら御詫びやら願いやらというものは頂ける、とこう思う、ね。
例えば大体においてね、その、ま、自分の思うようにならない。何とはなしに心にひっかかってたまらん事がある、不安である、心配である事がある、ね。私、この事を今日この事を思わして頂いておりましたら、先日、成人式の時に皆さんに色紙へ、短冊に書いてあげた金光様の言葉です、三代金光様の、ね。「信心の稽古」というあの短冊を頂いたんですよ。
だから、信心の稽古を本気でさせて頂こうという気になからなければ、ね。本当の御礼やら御詫びやら願いやらできないです。ただお参りしております、ね。おかげを頂きたいからお参りをしております、というだけではなくて。ここには信心の稽古に通うて来るところとおしゃっるから、ここには信心の稽古に通うて来る。教えて頂くその教えというものがそのまま鏡である。そしてそこにいうなら歪んでおる所を、またはおかげ頂いておる様子がそこに映ってくるのですから、ね。そこに実感としての御礼、御詫び、願いが出来るんです、ね。
だから問題はいうならば信心の稽古を本当にさせて頂こう、という事になる時にその信心の稽古のどういうふうにして稽古をするのか、と。御礼さえ言うとけば、御詫びさえ言うとけば、御願いさえしておればというなら、金光教の信心が三つの御礼、御詫び、願いという事に、こう分類、祈りの分類というなら、そういう事になっておるけれども、どういう時に御礼を申し上げるのか、どういう時に御詫びをするのか、願うていくのか、という事が分からない、ね。いうならば、鏡を立ててみて、鏡を立ててみて分かる事だけ、ね。
そこから、いうならば、これによって御詫びの稽古をさしてもらう、これによって御礼の稽古をさしてもらう、これによって御礼の稽古をさしてもらう、ね。昨日も申し上げた様に、これは私がこの御教えを頂いて、え~金光様のお言葉の詞。はあ、これによって稽古をさして頂くのだなあ、と思わせて頂くいた。という事を皆さんにも聞いて頂いたんですけれど、問題はいつもだから稽古をさして頂こうという気がなからなければダメ。
どうしてこんな難儀な事になっただろうか。どうしてこんな情けない事になったのだろうかと言うとった分ぢゃ、そのどうしてという事になっただろうか、どうしてこんな難儀な事になったであろうか、という事ではなくて、その事によって稽古さしてもらう。だからこの事によってなら本気で稽古さして頂こう、という人は沢山ありましょうけれども、その稽古の手立てを教えてくれなかった様に思うですね。過去の金光教は、ね。
確かに御礼だ、御詫びだ、御願いだという、その分類だけでは出来たんだけれども、どういう所に御礼を申し上げ、どういう所に御詫びをしていったら、また改めていったら。その手立てというものが説かれてなかった。いわゆる、おかげは和賀心にあるぞ、と教えてあるにもかかわらず、その和賀心に成らしてもらう手立てが、私は説くのに不十分であったところへ、合楽理念の、いうなれば、によって助かられる事になった時にです、いうならば、その御詫びをせねばならない事、御礼を申し上げねばならん事、御願いをせねばならない事がこうはっきり分かってくる。それとても、ほんなら問題は稽古をさして頂こうという構えが出来ておらなければダメ、ね。
それによって研く、それによって改まる。もう全てがそうなのだ、ね。信心の稽古、とこう言うならば思うただけでその事がです。例えば、人にまあ腹立たしい事があって人を恨むような事があってもです。例えば人間ですからそういう事がちょっとあったり、又ちょっと不安になるような事があったりしてもです、あっ、これで神様稽古せよと言いよんなさっとぢゃなあ、と思うたらそれが問題でなくなってきたり、これは反対に御礼を申し上げねばならない事だったと気が付くのです。
だからその実感が御礼をともなり、御詫びともなる。そして次の願いともなるわけなんです、ね。だから、信心の稽古、信心の稽古というても、本気で信心の稽古をしよう、とこう構えておらねば本当の御礼やら、御詫びやら、御願いやら出来ない、ね。はあ、これによって神様は信心の稽古をしろと言いよんなさっとぢゃなあ、と。例えば、神の声をそこに聞く思いで、そんならどういう手立てでそれを稽古していくか、という事が日頃の御教えだと、合楽理念をひも説かなきゃならん時だと思うんです、ね。
私は今日はいよいよもう八十八節と、この御教えは大体、普通からいうたらも、説きようのない感じの御理解なんです、普通からいうたら。ところが合楽でこの八十八節の御理解がもう度々出るでしょう。皆さんがお聞きの通りです。これが、いかに合楽の皆さんに広がりに広がっていく、おかげを受けてくれよ、という神の願いがかけられているかという事が分かるんです。だからそこに神の願いを思うたら本気でその神の願いに応えて稽古の構えを作ろう、という気にならなければダメですよ。
そして事ごとに、その事を通して信心が分かる。その事を通して稽古しようと思わなければ、そすと、もうその場で御礼が言えたりむしろ御詫びが出来たり又は簡単に出来ないにしても、その事を通して信心をさして、はあ、この事を通して本気で信心の稽古をせよ。力を受けてくれよ。徳を受けてくれよ。と、神様が言うておられるな、という事が分かるんです。ただ、広がりに広がっていく八十八節の、なら、おかげを受けていきたい、というのは皆持っておるのです。おかげを頂きたいと思うておるのです、ね。それには、いわゆる広がりに広がっていくためには、もう限りがない修行が求められるわけです、ね。もう、いうならば鏡を立ててその事を通し、その問題を通して信心の稽古をさしてもらい、信心が、の、いうならば奥どころ、奥どころと進んでいけれる、という生き方を本気で身に付けたらもう広がりに広がっていくおかげを頂ける事が分かるでしょう、ね。
これはもう一生、いやこれはもう御霊の世界に入ってからでも、この根本的な信心の稽古の構えというものを作っておけば、もう御霊はいよいよ喜びの御霊、安心の御霊として昇華していくでしょう、ね。又は、この構えを作っていくならば、ね。限りない信心が進んでいく事でしょう。いうなら、どうして稽古したらよいのかというのが私はまあ、いうならば合楽以外で信心の稽古をしておる、という人達ぢゃないかというふうに思うです。そして、まあ、手探り的に、いうならば信心の稽古をさして頂いとるんですけれども、御礼を申し上げねばならん時に、不足の心がおこったり、ね。御詫びをせねばならない事に、ね。かえって恨んだり、妬んだりしておる、というような、ね。ま、色んなおかげの受けられない心の状態というものがいつも出て来て、ね。私は今日は皆さん、ここの限りないおかげの頂ける事の為には限りなく精進させてもらおう、とする構えが出来なきゃいけない。
もうこれはどんなにおかげを頂いておっても、日々の中にそれがある、という事。だからもう日々その事を通して稽古さしてもらおう、という構えを作っておく、という事がね。広がりに広がっていくおかげにも、つながっていく事だと思うのです、ね。だから問題は、ただ広がりに広がる。いうならば末広がりのおかげを頂きたい、と願うだけではなくて為には、ね。日々本気で信心の稽古をさして頂こう、その稽古の手立てを日々皆さん稽古しておられるんだと思います。どうぞ。